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『灰と薔薇のあいまに』を歩く

この秋の日本滞在中、わたしが「あいち国際芸術祭」にぜひ足を運びたいと思った理由は、大きく二つあります。
第一に、2025年のテーマタイトル「薔薇と灰のあいまに」に強く惹かれたことです。実は、最初わたしはこれを「薔薇と灰のあわいに」と読み違えていました。その読み違えが、かえって惹きつける力を増していたように思います。中東の詩人による未完成詩の一節から採られた言葉だと説明にあり、原詩を辿ってみると、英語では A Between Ashes and Roses とされていました。「あわいに」と仮名で置く日本語の感性が、この芸術祭の全体像を、すでに静かに語り尽くしているように感じられたのです。もちろん、「あいまに」でも意味は変わらないのですが、その揺らぎ自体が、この企ての核なのだと思えました。
第二に、その詩が1967年、パレスチナの六日間戦争のさなかに書かれたものだと知ったことです。その地点を発信源とするテーマが、日本という場所でどのように展開されるのか。そこには期待と同時に、一抹の疑念もあり・・・その両方を抱えたまま、わたしは実際にそれを見届けたいと思ったのです。
六日間戦争をきっかけに、「ここでこうしてはいられない!」と日本を飛び出し、ニューヨークへ渡った中馬芳子。彼女は今も一貫してパレスチナ問題(だけではなく、各国の辺境の地へも赴く)をダンスパフォーマンスで表現し、パレスチナの仲間たちとも踊っています。わたしの周囲で、あの発信源をいまなお真摯に引き受けている日本人は、彼女以外に思い当たりません。しかも今では、1967年を体感として知らない世代が多数派です。それでも近年、日本でも中東問題に目を向ける人は確実に増えてきているし、それが「中東の問題」ではなく、世界の、そして私たち一人ひとりの問題なのだという認識も、ゆっくりと共有され始めているように感じます。そうした日本の現在において、この芸術祭はどのように開かれ、どのように観られ、どのように受け止められるのか——その一点に、わたしの真剣な関心がありました。
展示内容については、あえて事前の下調べをせずに会場へ向かったのですが、入口近くの最初の作品を眺め、続いて別の展示室へ足を踏み入れた時点で、すでに、時間が足りないこと、この芸術祭の規模の大きさと、出会うべきアーティストの多さ、そして、この芸術祭のディレクターに対する驚きが胸に込み上げてきていました。
「いったい、この人は何者?」
彼女の名はフール・アル・カシミ。1980年生まれのアラブのキュレーターです。わたしから見ればかなり若い世代ですが、ディレクターとしてはすでに豊かな経験を積んだ人物です。彼女を起用し、共にこの展示を完成させた実行委員会は、テーマの提示の仕方と、アートが持ちうる力とは何かという問いを、両手をまっすぐに差し出すようにして提示している。その点において、そして世界各地の「周縁の声」を丁寧に掬い上げているという点において、確かな成功を収めていると感じました。心からの拍手と感謝を送りたいです。
周縁の声——それは、海底から、森林から、戦争の爆撃現場から、労苦に次ぐ労苦を生きてきた人生から、脇へと追いやられてきた先住民の歴史から、あらゆる場所から聞こえてくるものでした。
決して叫びではなく、囁き声。展示室をこちらから彼方へと移動するあいだも、その囁きは脇から、絶えず鼓膜をかすかに震わせ続けます。その声に囲まれて、わたしは足早に進みながらも(時間がない、すべて観たい、けれど半日では足りない!)、足元が次第に、ふかふかとした大地へと変わっていくのを感じていました。
いのちの力が、足元から立ち上がってくる——そんな感覚と言えばよいでしょうか。声は、脇からだけでなく、足元からも届いていたのかもしれません。その中には、ときおりアイヌの震えが、タミールの咽び泣きが混じります。
灰と化した戦地、灰と化した身体、灰と化した森林や珊瑚礁。金色の貨幣社会に閉じ込められ、すでに灰と化しながら、それに気づかないふりをしている私たち自身。それらに正面から闘いを挑むのではなく、まるで別の次元から、いのちの柔らかさと、高らかな喜びの音が溢れ出してきます。わたしの身体もまた、徐々にその響きの住人となっていくようでした。

杉本博司氏の作品の前に立ったとき、作品の中の白熊が、わたしに話しかけてきました。やはり、囁き声で。
「そうだ」と。 「そう、世界は確かに終わっている」 「そして、君はいま、ルネサンスを体験している」
その言葉は、わたしにとって、特に大小島真木さんの展示空間で現実のものとなりました。広い部屋は、地の底から這い上がってくる低音の囁き声に満ちていましたが、何よりも圧倒的だったのは、彼女の大きな一枚の絵です。
極めて私的で、圧倒的な体験——おそらく出産体験と即座に伝わるその力が、大地と樹木の群れ、無数の生物や微生物、水とその流れとうねり、さらには大気へと、これほどまでに繊細に、柔らかく、調和そのものとして広がりうるのか。抑制された黄色を中心に円環が拡張し、赤がそれを迎え、ペガサスが黄金の稲穂を天へと運びます。その一方で、苦悩する人間が、文字通り血を流しながら一粒の稲を手にし、そしてそれさえ奪われていく姿が描かれています。それは、観る者に静かに呼びかけているようでした。
何を?
——「……それでも、これが現実なのです」と。

苦悩こそが現実なのではない。苦悩の底にあってもなお、現実はこれほどまでに美しい力によって包まれているのではないか。いのちとは、固定されたものではなく、うねりなのだと。
彼女と、そのユニットパートナーである辻陽介氏の今後の活動を、わたしはこれからも見逃さずにいたいと思いました。
それにつけても悔やまれるのは、この芸術祭のスケールの大きさを事前に知り、もっと十分な時間を確保しておくべきだったということです。一つひとつの作品に、もっと深く浸っていたかった。滋養に満ちた足元の感覚と、あの囁き声に、さらに長く身を委ねていたかった。
館内には、残酷な気配はかけらもありませんでした。たとえ映像が爆撃の場面を映し出していたとしても、そこに満ちていたのは、ただ花の香り——薔薇の香りでした。その香りは、あれから一か月が経った今も、わたしの鼻腔にとどまり続けています。





