Sofiane Ouissi and dove from "Bird," photo © by Pol GuillardPhoto © by Pol Guillard, L’Art Rue-Dream City 2025
Sofiane Ouissi and dove from "Bird," photo © by Pol Guillard

鳩と共に踊る〜ソフィアン・ウイスイ〜

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「あいち国際芸術祭2025」において、私たち13名のグループには、一つのハイライトがありました。
 一緒に、“鳩と踊るダンスパフォーマンス”を観ることです。

この世界で、人と動物は共に生きていけるのだろうか。予測不可能な出来事、沈黙、呼吸やまなざしによる鳩と人の共演がはじまる。

 ダンサーはソフィアン・ウィスィ。音楽(エレクトロニクスとパーカッション)はPan-J ことジヘッド・クミリ。どちらもチュニジアからの来日。そして、パフォーマンス後に明かされるのですが、愛知県の後藤さん(障害者の自立訓練のための農園をされている方)が育てた純白の鳩。この三者が出演の50分ほどのダンスです。

 かつて、CRSで、馬と踊るダンス・カンパニーを招いて「フィジカル・リスニング」についてのイベントをしたことがありました。その際、創立者のジョアンナ・メンドル・ショウは、 「自分の馬」ではなく、馬のいる場所を訪ねて、時間をかけて関係を築いていくのだと語っていました。
 馬は巨大で、わずかな慢心が命に関わる。性格も多様で、好奇心旺盛な馬もいれば内気な馬も。賢いので、振付の流れを察して、早く終わらせようと動いてしまう馬もいる。
 彼女たちは、それぞれの馬の性格に応じて感覚を研ぎ澄ませ、信頼を損なわぬよう、共に動いていく。そのためには馬術訓練と、それ以上に「身体的文脈の再構築が不可欠」なのだ、と。そのプロセスを、フィジカル・リスニングと呼ぶのです。

 鳩は、馬とは対照的に、軽く、地を駆け出すことはないけれども、いつでも飛び去ってしまう翼を持っています。「早く終わらせよう」と思うかどうかはわからないけれども、「作品に協力する」「努力する」といった人間的な意志は一切ないでしょう。ですから、ソフィアンもジョアンナたちと同様、人間同士やソロのダンスとは異なる、根本的な身体的文脈の再構築が要るはずです。
 私は、その瞬間を目撃したいと思っていました。

 このパフォーマンスにおいて鳩は、「神」に限りなく近い存在と言えます。完結していて、あるがままで、働きかけを一切しないという点で。こちら(人間)が、相手が神であることをまず認識し、受け入れ、神にアプローチしていくことになります。すなわち、“神という実在のレベルに慎重に降りていく”ことが、準備となるはずです。
 神のレベルには取扱説明書がありません。もし鳩が神、つまり愛そのものだとするなら、人間ができるのは、その愛の中に静かに自らを浸していくことだけです。
 しかも、「こちら」とは、ダンサーの身体だけを指すのではありません。愛は四方に広がります。会場全体、観客である私たちもまた、その場で関係の一部となります。

 ソフィアンが鳩を抱き、私たち一人一人と目を合わせながら、会場をゆっくりと周回し始めた時、彼が、空間に散在する「愛」を丁寧に拾い集めているような気がしました。蜘蛛の糸ならぬ、愛の糸が編まれ、私たち全員がそこに移行していくような感覚がありました。
 鳩は彼の手から肩へ、そして頭頂へと移動する。彼が両腕を広げ膝を折ると、鳩も羽根を広げ、飛行体制に入る——これは鳩の習性だそう。

 このときダンサーは、考えてはならない。思考は愛に属するものではないから。
 自ら動いてもならない。行為もまた愛に属するものではないから。
 愛でないものを、徹底的に削ぎ落とさなければ。

 ソフィアンは、鳩の重みや軽さ、微細な動きや音を感じ取り、それに応答し、同調していき。その感覚の流れに、自身の身体を滑り込ませていき。観客は、息を詰め、そのプロセスを見守ります。ダイナミックなジャンプや、腰のわずかな揺れが、そしてくるぶしの小さなひねりを凝視しつつ、会場の静けさを感じています。
 
 約20分が経過した頃、ソフィアンの五感から「鳩という個体」のイメージが消え、二者の間に生まれた純粋な喜びだけが溢れ出す瞬間が訪れました。
 彼の腕、腰、足首の動きから、それが伝わってきた、と感じました。

 ダンスには無数の概念やテーマ、テクニック、スタイルがありますが、身体は一つしかありません。腕を三本に増やすことはできない以上、表現は二本の腕に委ねられます。その結果、多くの場合、動きは、その人の癖の反復、あるいはそのバリエーションに留まってしまいます。
 けれどソフィアンは、慎重な求愛の時間を経て、自分が知っていた自分の身体そのものが、関係の中で溶け、新しいものへと入れ替わったことを自覚したように見えました。

 関係とは、このように、身体ごとの変容を伴うもの。
 それは、相手に要求し合いながらステップを合わせるダンスではなく、相手が差し出す全き神性の気配に耳を澄ませ、その中に、これまで築いてきた自己を脱ぎ捨てて滑り込んでいく行為です。

ソフィアンの緻密で繊細、かつ、核心を外さない動きと、そこで変わらず終放されている鳩との融合に、私たち観客も、引き込まれていました。
至福——それは人生の醍醐味そのものでした。

 気配は、いつも、あらゆる場所にあります。だから醍醐味は、日々、耳を澄ませて求めることができるし、求めれば、必ず与えられるのです。

 気配に意識を向けて日々を過ごしたい。。。改めて強く思い、その思いを呼び戻してくれた時空間と、それを共に経験した会場のすべての存在のかけがえのなさに、これを書いている今もまだ、胸をいっぱいにしています。

Yoko Tawada, Professor Rivka Galchen, Susan BernofskyPhoto © by Christopher Pelham

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